絶景が消えた街、チェンマイの現状

タイ北部の象徴であるドイステープ寺院は、本来であればチェンマイ市街を一望できる壮大な景色と、周囲を囲む豊かな緑の山々で知られています。しかし、ここ数週間、訪れる人々が目にしているのは、街全体を厚く覆い尽くした灰色の濃い霧(ヘイズ)です。

この現象は、タイ北部で頻発している野火(自然発火や不注意による山火事)によって引き起こされており、大気汚染が極限まで悪化しています。事態を重く見た当局は、3つの州に緊急事態宣言を発令しましたが、汚染物質による健康被害は止まる気配を見せていません。


観光業を襲う「二重の打撃」

チェンマイの観光業は現在、環境問題だけでなく、国際的な政治不安という外部要因にも苦しめられています。米国・イスラエル・イラン間の緊張状態による地政学的リスクは、航空便の乱れや運航コストの上昇を招き、タイ観光庁は外国人観光客の目標数を最大18%下方修正せざるを得ない状況に追い込まれました。

しかし、地元業者にとってより深刻なのは、この「空気の汚れ」です。ツアー会社を経営するピッサマイ・トゥプリット氏は、次のように訴えます。

「チェンマイの最大の売りは、山々に囲まれて新鮮な空気を吸いながら過ごす体験です。しかし、この塵(ちり)が舞い上がれば、すべてが台無しになります」

特に、タイの伝統的な新年祝祭であるソンクラーン(水かけ祭り)という最大の繁忙期を前に、予約のキャンセルが相次いでいます。ピッサマイ氏は、交通渋滞と燃料価格の高騰、そして何より汚染による客足の減少により、多くのツアーを中止せざるを得ない状況にあります。


なぜ「スモッグ」は繰り返されるのか

チェンマイの大気汚染は、毎年繰り返される構造的な問題です。主な原因は、自然発生的な野火に加え、農家が収穫後の土地を素早く浄化するために行う「野焼き(農地焼却)」にあります。

この行為は法律で禁止されていますが、現実には後を絶ちません。その背景には、農家が抱える経済的な困窮があります。大規模なアグリビジネス(農業法人)に契約している小規模農家にとって、高価な機械を導入して土地を整備することは不可能です。

「これは彼らが置かれている経済的圧迫に直結しています。マッチ一本で済ませるよりも安い方法は他にないのです」

タイ・クリーンエア・ネットワークの共同創設者、ウィーナリン・ルリタンダ氏は、個人の農家を責めるのではなく、構造的な貧困と支援の欠如が問題であると指摘しています。


忍び寄る健康被害と市民の恐怖

大気汚染は単なる不便さではなく、「死」に直結する恐怖として市民に突きつけられています。特に衝撃を与えたのは、2023年に亡くなった29歳の医師、クリッタイ・タナソンバトクルの事例です。彼は非喫煙者であり、健康的な生活を送っていたにもかかわらず、肺がんでこの世を去りました。

市民の間では、自分たちが「当たり前」として受け入れてきた空気が、実は毒になっているのではないかという不安が広がっています。

  • 子供への影響: 5歳の娘が毎日鼻血を出すなど、小児への急性影響が報告されています。
  • 生活の変化: かつては屋外でキャンプや会話を楽しめたが、現在は空気清浄機を回して室内で過ごすことが常識となりました。
  • 経済的格差: 余裕のある家庭は、高価な陽圧システム(外部の空気をフィルターでろ過して室内に送り込み、汚染物質の侵入を防ぐ設備)を導入していますが、多くの市民には不可能です。

医療現場からの警告

胸部・肺専門医のアティクン・リムスコン医師によると、最近の患者数は2倍以上に急増しています。汚染された空気は、以下のような多様な症状を引き起こします。

  • 急性症状: 視界のぼやけ、角膜潰瘍、鼻血、慢性的な鼻炎。
  • 重症化: 持病がある患者が血を吐き、酸素吸入が必要な状態で再入院するケースが増加。
  • 長期的リスク: 肺がんだけでなく、脳卒中、糖尿病などの代謝異常、さらには認知症などの神経認知機能障害との関連性が指摘されています。

解決への道:クリーンエア法の行方

現在、タイ・クリーンエア・ネットワークは、汚染源となる大企業に罰金を科し、その資金を「クリーンエア基金」として活用して、企業がよりクリーンな技術へ移行することを支援する法律の制定を求めています。

しかし、この法案は「反ビジネス的である」という反対勢力や立法上のハードルに直面しています。これに対し、ウィーナリン氏は、環境対策を怠ることは結果的に経済的な自殺行為であると主張します。

「環境に興味がないとしても、自然こそが『黄金の卵を産むガチョウ』なのです。観光客がタイに来るのは、その美しい風景と自然を体験するためなのですから」

チェンマイが再び「新鮮な空気」を取り戻せるかどうかは、単なる環境対策ではなく、タイの観光経済の持続可能性を左右する極めて重要な課題となっています。